津波被害を受けた宮城県沿岸部の自治体では、従来の業務に加えて膨大な復興業務を並行してこなす状況が続いており、仕事量が増加している状況にあります。仕事に伴うストレスが高い状態が持続していると考えられ、自治体職員の間で精神疾患による休職者が増加していることが新聞等でも報じられているほどです。
過去の大規模災害においても、被災地の住民はうつ病やPTSD等の精神疾患の罹患率が上昇することが知られていました。災害業務に従事する労働者についても調査が行われていますが、消防士などの職業的救援者に限定された調査が多く、長期間復興業務に携わる被災市町自治体の職員に対する調査は乏しい状況でした。
そこで、本寄附講座では、2012年から継続して、被災地の自治体が実施する健康調査を通して職員の精神健康の実態を明らかにし、精神医学的な観点から助言を行うとともに、震災関連業務に従事する職員の中・長期的な精神面での今後のケア対策に活かすことを目的として調査研究を行っています。
これまでの研究により、自治体職員のうつ病とPTSDの発症リスクの高さに影響する要因としては、家族の死や被災による転居といった災害による喪失・悲嘆や環境変化による直接的な影響に加えて、職場でのコミュニケーション不足および休養不足といった災害後の職場環境が大きく関与することが明らかになっています。職場でのコミュニケーションがうつ病やPTSDの発症リスクに関わるという結果は、災害後の心理的外傷や喪失・悲嘆からの回復には、人々との結びつきが重要であるという考えに一致するものです。また、全体的な傾向としては、継時的に精神的健康は改善してきており、精神症状悪化のリスクが高い者の割合は減少傾向にあります。しかし、状態の悪いまま推移する者や新たに状態が悪化する者も一定数存在することが分かりました。長期にわたりストレスのかかる状況下で仕事に従事する自治体職員に対して、継続的な対策や支援が必要であると言えます。
東北地方の沿岸部では医療機関にも大きな被害があり、地域の医療を維持するために多くの人々が尽力しました。特に、被災地の看護師は、被災者でもあり支援者でもあるという二重の立場で発災直後から長期間活動し続けており、メンタルヘルスに問題を来すことが懸念されます。
本寄附講座では、2011年から継続して、被災地における看護師のメンタルヘルス調査を実施し、災害後の被災地看護師に対する支援方法の検討を行っています。
地域の社会福祉を支え、復興を担う社会福祉協議会(以下、社協)は、平時には地域に密着し、主に高齢者や障害者への様々な社会福祉サービスを行っている組織です。また、大規模災害の際には、行政など様々な関係機関と連携し、被災者への支援活動のため、災害ボランティアセンターの設置、仮設住宅の見守りを行う生活支援相談員の配置等を進め、被災者への生活支援・相談活動に取り組んでいます。さらに、発災から数年が経過した中・長期的な支援として、これまでの個別支援に加えて災害公営住宅への移行に伴う新たな地域のコミュニティ等の構築に向けた地域支援も行われています。
地域の復興に向けて地域の社会福祉を支える社協の職員が果たす役割は大きいと言えますが、大規模災害後の社協職員のメンタルヘルスについては、これまで十分に調べられてきませんでした。しかし、社協職員は被災者との距離が近く、自らも被災者として大きな被害を受けている者が多いため、仕事と支援との間の葛藤に晒されることも危惧されています。
そこで、本寄附講座では、2012年から継続して、宮城県内の各自治体社協職員のメンタルヘルスの実態の把握と精神的不健康に関わる要因の検証を行っています。また、社協職員自ら健康状態を把握し、セルフケアに努めるよう啓発するとともに、集団の傾向を把握し、今後の対策に役立てるための助言等を行っています。
大規模災害後には、重度の精神疾患よりは、むしろ軽度の精神疾患や精神的不健康をきたすことが多いと考えられています。被災地に住む人々には、外傷体験や喪失体験に加えて、家庭的・経済的・職業的に様々なストレスが持続的にかかっている状態です。これらの問題にアプローチするためには、医療機関での治療ではなく、精神的な健康増進や予防的な観点から一般市民に働きかけることが大切だと言えます。
認知行動療法は、認知・行動の両面からの働きかけによりセルフコントロール力を高め、社会生活上の様々な問題の改善や課題の解決をはかる心理療法です。うつ病や不安障害など様々な精神疾患に対する有効性が報告されていますが、精神疾患にまで至らない抑うつ症状にも効果を示すことが知られています。さらに、精神疾患の予防にも効果があることが示されており、医療現場以外の領域にも広く応用されています。
日本は他の先進国と比べて認知行動療法の普及が遅れており、認知行動療法の基本的考え方やスキルを広く社会に普及し、被災地のメンタルヘルスケアに役立てていくためには、効果的な研修方法を確立していく必要があると言えます。この研修プログラムが、認知行動療法の普及、精神的問題への支援、精神疾患の予防のための有効な手段となれば、大規模災害後の被災地支援に加えて、うつ病や自殺予防など広く精神疾患の予防や精神的健康増進に向けた一般向けのプログラムとして貢献が期待できます。
そこで、本寄附講座では、2012年から、一般市民および支援者向けの研修プログラム「こころのエクササイズ研修」を宮城県内で実施し、同プログラムの効果を検証しています。本プログラムは、大野裕先生(一般社団法人 認知行動療法研修開発センター)と田島美幸先生(国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター 認知行動療法センター)開発した全6回からなるコースで、認知行動療法の基本、活動記録表、行動活性化、コミュニケーション・スキル、アサーション、認知再構成法、問題解決技法などを、市民向けに分かりやすく解説し、演習を交えながら実施するものです。
これまでの研究では、本プログラムが被災者の自己効力感の向上に役立つことが示唆されています。また、参加者の理解度について、介入前後で「自分の考え方のクセを知っている」、「どのように考えるとうつや不安な気分が強くなるのか分かっている」、「自分をいつも苦しめている考え方に気づき、発想を切り替えることができる」、「解決策を実行した後で、状況がどう変化したかを注意深く評価する」という項目に有意な改善が見られました。
サイコロジカル・リカバリー・スキル(Skills for Psychological Recovery: SPR)は、2010年にアメリカ国立PTSDセンターとアメリカ国立子どもトラウマティックストレス・ネットワークが開発した、災害復興期に特化した支援プログラムです。日本語版は2011年に兵庫県こころのケアセンター研究班によって作成されており、復興回復期に推奨されている最新の心理的支援法です。これまでに海外では用いられてきましたが、日本では本格的な適用はされていません。被災地で支援に携わっている精神保健医療の専門家がSPRのトレーニングを受けて被災者に適用することは、被災地におけるメンタルヘルス対策として実践的な意義があると思われますが、その研修方法は十分には確立されていません。
そこで本寄附講座では、まず被災地の心のケアに従事している専門家に対して兵庫県こころのケアセンターの大澤智子先生を講師にお招きしSPRのトレーニングを行ってきました。基本研修については、2012年~2014年の間に、被災地において計5回の2~3日間のワークショップが開催され、のべ151名が参加しています。希望者を対象としたフォローアップ研修も、2012年~2014年の間に計4回開催され、のべ56名が参加しました。2015年以降も基本研修を継続して実施しています。
他にも、SPR活用場面についてのデモンストレーションDVDを作成し、研修後に受講者が被災者支援の現場でSPRを実施しやすくなるような仕組み作りも行っています(同DVDは、兵庫県こころのケアセンターHPよりダウンロード可能です)。また、被災地でSPRを活用した事例に対するSVを行う活動を行っています。
さらに、兵庫県こころのケアセンターの加藤寛先生と大澤智子先生の協力を受けながら、日本におけるSPRの実施可能性(安全に実施できるか)を検証する研究を実施しました。被災地である宮城県内で精神不調を抱える住民を対象にSPRを用いた介入を行った結果、平均5.5回の介入で精神健康状態やレジリエンス、自己効力感の向上が見られました。特に、自己効力感については、介入終了2ヶ月後にもその効果が維持されることが明らかになっています。本研究の結果から、SPRは日本においても安全に実施できるという可能性が示唆されたと考えられます。
発災直後から、施設の損壊のために医療の継続が不可能となった病院が生じたり、機能が保たれた病院に患者が殺到したりするなど、各施設に様々な困難が生じました。発災後、全国からこころのケアチーム等を含めた様々な支援が入って被災地での精神保健活動が行われましたが、精神科医療の主要部分を実際に担っていたのは地元の精神科医療機関でした。しかし、宮城県全体として発災直後から急性期にかけて、精神科医療の現場がどのような状況にあり、どのような困難が生じていたのか、精神疾患をもつ患者にどのような影響が生じたかについては十分に把握されていませんでした。
本寄附講座では、震災後の宮城県の精神科医療機関における患者の動向を把握し、また精神科病院の被害状況について調査することで、大規模災害後が精神科医療機関にどのような影響を及ぼすのかを明らかにし、将来の大規模災害対策に役立てることを目指しています。
統合失調症などの精神病性障害は、10~20代にかけて顕在発症することが多いとされています。顕在発症前には、不安、抑うつ、対人恐怖、妄想的思考、異常知覚体験などの症状に加え、不登校、ひきこもり、就労困難など社会的機能も低下するため、前駆期に適切な治療介入を行うことで、精神病への発症を食い止めたり、遅らせたり、長期予後を改善させるための方法が模索されてきました。メルボルンのPACEクリニックのグループは、精神病を発症するリスクが高い精神状態(At-Risk Mental State: ARMS)の診断基準を開発し、現在この基準は世界的に広く用いられています。
東北大学病院精神科SAFEクリニックでは、精神病発症リスク状態(ARMS)の患者と、初回エピソード精神病(First Episode Psychosis: FEP)の患者に関して、研究参加同意を得た上で様々な観点から追跡調査を実施しています。
また、ARMSにはこれまで抗精神病薬などの治療方法が検討されてきました。現在、薬物療法以外の方法として認知行動療法への関心が高まっており、これまでに英国、オランダ、ドイツのグループが精神病の移行率を低下させる効果を報告しています。一方、日本の一般的な医療現場では、ARMSの基準を満たす若者は、統合失調症と同様に抗精神病薬を中心とした治療がしばしば行われます。しかし、副作用が強く出現したり、必要以上長期に抗精神病薬が処方されたり、必要でない患者にまで抗精神病薬が使用されたりすることが懸念されています。また、抗精神病薬の服薬を希望しない患者への治療が困難という問題もあります。こうした患者に対しては認知行動療法での治療を検討すべきですが、日本ではARMSに対する認知行動療法は普及しておらず、その効果も検証されていないため、この治療を受けることは極めて難しいという現状があります。
本寄附講座では、精神神経学分野や病院精神科と共同でARMSに対して認知行動療法を実施し、その効果を検証する研究を行っています。